100年変わらないもの

ヒストリー

豊岡の鞄産業と共に技術を磨いたマスミ鞄嚢の歩み

豊岡における鞄作りの歴史は古く、奈良時代に正倉院に上納した「柳筥(やなぎかご)」が残されています。15世紀には、豊岡の「九日市場」から柳行李が広く流通。やがて、西洋文化が一気に流入してきた明治時代には、「行李鞄」が豊岡で誕生しました。柳行李で培った流通経路から、豊岡は鞄産地として全国に知られるようになったのです。

1916年(大正5年)
行李鞄より、さらに鞄らしい体裁を整えた錠前付き漆塗りの「新型鞄」。その創作にも関わったとされるのが、マスミ鞄嚢の創業者・植村賢輔です。鞄産業の未来を確信した植村賢輔は、皮革製品に着目し、柳を革に代えて、豊岡で初の「箱型鞄」を開発。これがマスミ鞄嚢の始まりとなりました。

まだ海外旅行が一般でなかった1950年代から1960年代にかけて、マスミ鞄嚢の海外渡航用鞄は、多くのツアーコンダクターや海外出張者にご愛用いただきました。なかでも1960年代に販売を開始したオリジナルデザイン「マスミライン」の渡航用鞄は、海外にも輸出されるほどの人気ぶり。「すでに出回っているようなものを作ってもつまらない」。当代植村賢仁のこの言葉は、創業以来オリジナルにこだわるマスミ鞄嚢精神に裏打ちされたものです。

高度成長期の幕開けとなる1964年東京オリンピックでは聖火を運ぶケースを製作しました。時代の節目において、お役に立てたことは更なる技の向上への励みとなりました。

1984年の皇太子様(当時)の御外遊に、マスミ鞄嚢が「船ダンス」を作りました。船旅が主流だった昔、衣服を美しく運び船の中でもそのまま箪笥として使われたものが「船ダンス」でした。木工部を持ち家具を造る技術と鞄を作る技術を合わせもつマスミ鞄嚢だからこそできるものなのです。

2019年、2代目植村美千男が(一社)日本皮革産業連合会から日本で5人目「JAPAN LEATHER GOODS MEISTER(日本皮革製品マイスター)」(鞄部門)に認定されました。

*JAPAN LEATHER GOODS MEISTERとは 日本の優れた皮革製品の技術者を顕彰・広報し、広く世界の消費者等に周知を図ること等により、技術の維持向上と伝承、後進の育成及び皮革産業の発展を図ることを目的として始まった制度です。

2022年 温暖化防止に協力した企業の証として、地元但馬の「養父市市有林オフセット・クレジットプロジェクト」の協力企業認定されました。森林の持つCO2の吸収機能を最大限に発揮するため、緑豊かな養父市の市有林及び市行造林の間伐などで生まれる木材の購入を積極的に進め、持続可能な健全な森林づくりを支援を続けています。

SDGs目標14.「海の豊かさを守ろう」への取り組み
深刻な問題となっている海洋プラスチックゴミ。日本の海岸に漂着する海洋ゴミのうち約3割を占める廃漁網。 これら廃漁網の再生生地を使用し、付加価値をつけて製品として生まれ変わらせアップサイクルを行う「豊岡鞄漁網再生プロジェクト」に参加。
女性ファッション誌25ans(ヴァンサンカン)とのコラボ企画ではモデルTAO氏がデザイン監修を行った「tale of the sea(テイルオブザシー)」のワーキングトートを製作。
売上金の一部は日本財団「海と日本PROJECT」を通し海洋保全の取り組みのために役立てられています。

百年変わらないのは、作ってきたものが、
鞄ではなく、「マスミの鞄」であること。

100年続く旅の途中

マスミ鞄嚢について